ただの日記

日記帳

多機能すぎると日本製のリモコンになる

その機能は誰が使うのか


特に具体的にどうのこうのというのはないんだけれど、あまりにも多機能だったりするものっていうのはなんというか一周回って使いにくい。日本製のテレビのリモコンなんかもそうなんだけどもあれだけたくさんボタンがあっても、そのほとんどは使われない。正直言って選択肢が多すぎると大抵の人はめんどくささを感じてしまうものだ。それにあんまりごちゃごちゃしてるとかっこ悪いしなあ。でもでも最近の流れ的になんかシンプルでスタイリッシュなデザインにしとけばいいだろ?みたいなのもあんまり多くってそれはそれで。。という感じもする。アップルがiphoneを発表してそれが爆発的なヒットを生んでからかな、この流れは。まあ確かにApple社の製品はシンプルで洗練されていて、それでいて多機能とかいうまさにオールインワンな感じではある。最近はちょっと落ち目だけどね。なんにせよ不必要なまでの選択肢の多さというものは自然と人を不幸にしていくものなのかも。俺自身なかなか優柔不断を体現している身でもあるので、ことごとく選択肢を切り捨てることができずにどうにもこうにも不幸街道まっしぐらなことが多い。やはり人生は取捨選択、選び取って時には捨てていく決断も大事なんかなあと思う。それがなかなか難しくて結局最後まで右往左往、何にも決められずにタイムリミット。こんなことばかりだ。なんかもう自分の人生なのに本当に嫌になる。なんとかしたいもんだ。まあ案外なんとかなるかな。

気負うのってのは疲れるしあんまり意味がない

自戒の念を込めて


気負ってやろう遣ろうとしていることに限って全然うまくいかない。当然なんだけど、気負っているってのはものすごく意識しているということだ。自分のやっていることに適度に意識を向けるのはいいことなんだろうが、この加減がなかなか難しいもんでついつい、いきすぎちゃう。大体元来繊細というか気の小さい人間なのでどうしても人に見られることを意識したりだとか、結果を確実に出していかないといけない、みたいな状況はかなり分が悪そうな感じだ。だからなのか最近のブログ、というかマジではてなブログ型の日記帳になってきたけど、誰かに見せられるものを、とか考えないと反対に妙に気軽に書けるもんだ。実はこのブログを始める前にちょっと頑張って面白ブログみたいなものをやってみようとしたことがあった。恥ずかしいが、今考えてみると本当に面白くないくそみたいなもので、でも結構書くのに労力がかかっていたと思う。大したことは書いていないし、分量だってそれほど大きいものでもなかったのになぜあんなにも書くのが億劫で大変に感じていたんだろう。やっぱり気負っていたからなんだろうな。つまり何も考えずにただ感じたままにとりあえずやってみる、みたいなことができなかったんだ。とりあえずやってみる。これって実はかなり大事なことで特に俺みたいな頭でっかちにはこういうとっかかりは効果的だ。だって始める前からうだうだと未来予想図を描き始めるもんだから、まあ進まない。この進行の遅さってのは致命的だ。どうせ影響力なんて皆無で大した内容もないんだからちゃっちゃと始めるのがいいんだ。で、とりあえずやってみて、あんまり合わなければすぐにやめて別の方向に向かえばいい。そう、トライ&エラーだ。こういうのを繰り返していくと自分の向き不向きというやつがかなりはっきりしてくる。好きとか嫌いとか、できそうとか苦手そうとか言ってやってみなければそうそうその分野・世界のことはみえてこない。やってみれば案外簡単にできるかもしれないし、まあ逆にやっぱりダメだったりもすることもあるだろう。でもやってみて、試してみての実感は強いな。頭の中だけで考えていることというのはけっこう的外れなことも多いし。そうやって世界を広げていけたら楽しく過ごせる空間も広がるし、以前は苦手だったものも存外好きになっていることだってあるかも。とかくやり始めの時ほど、やってやってやってやって、やってみてある程度行くまでは余計なことは考えないのがいい。下手な考え休むに似たりだ。
下手な考え休むに似たり。。つまり俺は休んでばっかだったということか。そりゃあ周りと比べてなんか足りないなあと感じていたのもうなずける。というか本当に休んでいた人に比べて、下手に考えていた、というか意味もなく考え込んで迷って悩んでいた分、妙に疲れることも多かったし、もうほんと意味ないな。

ついでに他人の幸福とか不幸とかについて


そういえばこの前から思っていたことで、他人の不幸は蜜の味、ということわざ?について考えていたことがある。これはつい最近まで自分にもあったことなんだけど、人が幸せになっている場面を見て単純に祝ってやるとか、そこまでいかなくても喜ばしいことだと本当の意味で祝福の気持ちをもってやれるのは案外難しい。SNSとかで言ういいねボタンなんかも、もしも有料というか同情するなら金をくれ!ではないけど、いいねをするたびに一定額投げ銭しちゃうみたいなものだったら果たしてどれほどみんないいねができるだろう。でも反対にものすごーく不幸な投稿に対してであればどうかな。意外と金払ってでもいいねしたくなるのではないだろうか。そこにはいろんな感情があるだろうが。単にこの金でうまいもんでも食って元気出せよ!みたいな太っ腹な気持ちから出てくるものかもしれないし一概に他人の不幸を喜んでいるわけではないと信じたい。でもやっぱり人が幸せそうにしている場面というのはこう、なかなか祝福するのは難しいな。その人が知り合いで人となりも知っていてようやく芽吹いて春きたる、みたいな感じであればだれでも素直におめでとう!できるのかもね。
で、まあこういう心理があるのは昔からよく言われているわけだけど、冷静になって考えてみるとよく知りもしない他人が幸せになろうが不幸になろうが、そんなもんどうでもいい。ただでさえ足りない時間と脳細胞の無駄遣いなだけだ。世界の幸せの総量が決まっているのであれば人が幸せになるぶん自分の取り分が減るんだろうが、んなわけない。単純に資源の話とかだったら別だろうが、それはそれでもっと巨大なお話になっちゃうので個人ではどうすることもできんし。じゃあやっぱり他人のラッキーとかアンラッキーな出来事があったとしてもそれは俺には関係ないのだ。だからどうということもないけど、まあいいか

大学7年生だと思うことにした

そう、しょせんその程度のちがいだ

俺は大学7年なんだと開き直ることにした。実際そうやって考えるとあんまり大した問題でもないもんだなあと思えるというか、なんでも考え方次第なんだなあとしみじみ。「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」あの有名なチャップリンの言葉らしい。そんなもんなのかもしれない。多くの人は近視眼的に物事をとらえがちなんだよな、もちろん自分も含めて。とりわけ自分がかかわる物事ともなると、なかなかどうして遠くが見えなくなる。不思議なもんで、全然関係ない人のことはもうびっくりするくらい平然と冷静とみていられるものだ。人の振り見て我が振り直せなんてことも言うが、ああなるほど、客観視とは自分ではなく他人の視線でやるものなのか。この視線を自分に対してできる人はなかなか強い。つまりかっこよく表現すると第3の目、みたいなものかな。うーん多分だけど、自分のことでも過去のこととか割とどうでもいいことなんかは結構この第3の目で見やすいだろうな。過ぎ去ったことなんかはもうどうすることもできないからどこか冷静な目で見ることができる。だからだろうか、現在や未来の総量が相対的に減ってきている大人は割と諦観しやすくなる。これは過去のデータが増えてきて類似の出来事に遭遇する機会が増えてきたからじゃないのかな。つまりある程度は予習済みのことに相対することになるわけだ。こうなるとけっこう冷静に見つめることが多くなるのかもしれない。逆に言うと新鮮味には欠けるからある意味、本気になって取り組むきっかけはどうしても減ってくるんだろう。若いころはとがっていた人も年を取ると丸くなる、みたいな感じか。ようわからなくなってきたぞ。閑話休題。こういう第3の目を意識的に持つことができるようになると何がいいんだろう。一番は余計な心配というのをしなくなるのかもしれん。俺はかなりの心配性なのでもうちょっと進むとすぐに怖くなってしまってくよくよすることが多い。これじゃ心配症というか単にメンタルが弱いだけかな。割と暇なのと、あとは現在と遠い未来の出来事を想像してしまってしり込みしているんだ。ぶっちゃけ言うと何の意味があるのか。いやない、反語ってこうだっけか?人生なんてのは人類史的に大きなことを成し遂げるためにあるわけじゃない。単に生きていくためにあるんだ。生きるために食ってかなきゃならんしそのためには金が要る。だから前見て歩いて、惰性でも何でもいいから、とにかく「生きる」をしなきゃならない。で、そうなってくるとよくわからん自意識がちょっと邪魔してくるのだ。これまたタイミングも悪くって、不詳このわたくしはあの大不評だったゆとり教育なるものどまんなかの世代である。そう、個性を大事にしなされなんて言うちょっとポエミーな教育を享受してきた年代なわけだ。正直そんなにゆとり教育に不満があったわけでもないが、やっぱりこう、自分を過剰に大切にしすぎるきらいがある、そういう教育の結果を感じることも、まあ割とよくある。でも別にそういう自意識だとか自分の個性を認めてほしい承認欲求というのは淡々と生きていくにあたってははっきり言って邪魔なわけだ。そういうのはどんなちゃらんぽらんな放蕩生活送ることになっても大丈夫な金持ちの生まれのボンボンだとか、選ばれしエリートの集団にでもあったらかなーりいい働きをしてくれるだろう。でもでも俺みたいな小市民にはこう苦しいんだ。これは。あんまりないほうが身のためというか、あって得したことは、ほぼないな。だからこそだ、なんでもない俺を第3の目で見つめつつも淡々となんでもない日常を踏みしめていければ、たぶん今よりもかなり違った景色が見えてくるはずだ。淡々と、日常を、見つめ歩いていく。とかいう多分凡人にとっては結構クレイジーな難しい目標を立てちゃったりして。

実はこのブログも淡々と続けてこれたことかもしれない

これは、、、どうかな。そう思いたきゃそうなんだろうけど、一か月ほとんど更新していない月もあったので本当の意味で積み重ねてきたものとは言えないかも。でもつい先日このブログというか日記帳をボケーっと眺めていたんだが、なんでだろうか、妙な充実感があった。あ、この時はこうやって考えていたのかとか、この時に比べれば少しは気持ちも行動も前進しているな、とか。そういう振り返りにもなったと思う。記録を取るって実はかなり強力な第3の目を作る訓練になるんじゃないかなあ。特に毎日少しでも日記を書き続けることができると多分もっともっと客観視の下地ができてくるのかも。知らんけど。まあ正直ここ数日書いている2000字くらいの長めのポエムというか感想文というか、そういうものだけじゃなくて単に今日はこれこれこういうことがあった。楽しかった、とか疲れた、とかそういうものでもいいのかな。どうもここ最近はこうやってつらつらと書き記すことで自分の心にたまってた毒素みたいなものを吐き出している感じがする。だから義務感とかではなくって、結構楽しいから書いている節がある。というかこうやって書かないとなんか溜まりに溜まって変になりそう。いや別にそこまででもないかな。何だったかの研究ではネガティブな感情は何でもいいから書き出しているとかなりストレスの軽減につながるらしい。意外だけどネガティブな感情を書くことで気持ちの整理ができるのかもしれない。これも淡々と記録していくことによって自分の嫌な感情、それを起こした出来事を遠くの目で見つめることができるからなのかな。ああなんかいい感じに気持ちよくなってきた。今日はこれで終わり。

拗ねるのは地獄

類は友を呼ぶ

なんとなく。なんとなく思ったことがあって、それは大人が拗ねるのはかなりデメリットしかないということだ。いい年した大人がいじけていたり、不機嫌だったりするのを見て自分だったらどう思うのか考えた。多分かなりの確率で離れていくし、面倒だと思う。そういう人のところには誰も集まろうとはしない。あたりまえだけど、そうやって生きていくと人が集まらないから余計に変なこと考えちゃって、また不機嫌が顔に出てくる。そうするとまた、、、という悪循環。なんで悪循環というのはこうも見事に成立するんだろうか。いい流れってのは起こすまでも大変だしそれを継続させるのも大変なのに、悪循環はもう意図せずとも起きる。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。なんて言うが、成功には再現性があんまりなくって、失敗にはものの見事に再現性があったりする。閑話休題。とにかく今の俺にはそもそも類は友を呼ぶという言葉以前に人とのつながりとかが皆無なのでこれから人付き合いというのをやっていかなきゃならないわけだけ。そういう時に自分自身の態度やら考え方やらと同じような人が周りには集まってくるんだろう。学生時代を思い出すと確かにその時々の自分の考えだったり、能力的なものだったりに比例して人が集っていたような気もしている。ああ、それほど悪い感じではなかったので、俺自身の人間性というやつは地獄絵図というほどは悪くないもんだと信じたい。実際どうなのかはわからないけど。失敗から学ぶというのは腐るほどあるのでいいコミュニティーを作っていけた人の話ばかり取り入れるだけじゃなくて、もうなんでこんなんなっちゃったんだ、みたいな人の話をたくさん見聞きしたほうがよさそうだ。大体ものすごくうまくいっている人の話をじっくりひも解いてみると、その時々の不思議な運というか、偶然みたいなものに助けられていることが多かったりするんだ。まあその運をつかむのまでもものすごい努力をしていたりするわけだけど。運、努力、才能、センス、人脈。そういうものが絡み合ったときにようやく成功することができるのかもしれない。くっだらないことで機嫌を悪くするのはもったいない。そんなんだとただでさえ陰陽で言えば陰の人間なのに周りにも陰気な人ばっかりになってしまう。もうお前らどっかの秘密結社かよ見たいな集団になりかねん。気を付けよう。

停滞、調和、不快、混沌

ついでに、さっき見たTEDの内容の感想でも書こう。簡単に言うと人は快適な状況の中では成長せず、いやそれどころかよくて現状維持、人的価値の減価償却みたいなことまで考えると衰えていく一方だという。そこで大事になってくるのが不快だと感じる場・自分の欠点を指摘してくれる師匠を持つということ。ここが一番成長する。人が置かれる環境を4段階で区別すると、停滞、調和、不快、混沌とある。停滞、これはまさに今の自分の状況かな。いや多分停滞と調和の中間くらいかも。停滞ってのは本当にのっぴきならない、何もできない状態。がんじがらめになってしまっていて、動くこともままならない。鬱とか引きこもりとか。そういう段階かな。次に調和のとれた状態。これはきっと多くの人が最も長い時間所属している段階だろう。安定していて、やったことに対する結果が予測しやすい。つまり慣れた環境に長く身を置いているわけだ。学校でも職場でも、あるいは趣味の集まりでも。自分が何かをするとどういう反応や結果が返ってくるのかかなりわかっている。快適である一方で実はとても危険もはらんでいる状態でもある。でもこういう安定したものを得ると、外に出たくはなくなるよね。そりゃそうだ。で、不快を飛ばして先に混沌。これは何だっけな。会社の合併とか自然災害みたいなことを言っていたか。いろいろと変わりすぎて自分じゃどうしようもないような状況。不快を通り越しているので成長とか言っている場合ではなく、自分の生存が重要になる。ある意味では成長できるのかもしれないけど。そもそもまじで死ぬ可能性がある状況だったりする。停滞と混沌は両極端だけど、どっちも何か積極的に選び取れるようなものではなくなってしまうのでできれば避けたほうがいいだろう。それができないから困るんだけどさ。そして最後に、不快な状況。これこそが一番身を置く効果がある。考えてみれば当然だけど、慣れ親しんだ人・場所に1年間いるのと、まったく知り合いがいないところに行って1か月過ごすのではどちらのほうが学びが大きいのかって話だ。これが行きすぎちゃうと混沌の段階にいって鬱とかになって停滞に落ちるのかな。そう考えるとベストなのはメインの場は調和がとれていて、適度に不快な状況もある。そして副業のような形で割と経験したことのないような不快な状況にあえて飛び込んでみる。みたいな感じだろうか。こうやって考えるとサラリーマンやりながらの週末起業ってのはかなり理にかなっているなあ。いざとなれば調和のとれた職場に戻ることができるから、セーフティーネットもあるわけでなかなかおいしい状況なわけだ。前提として、本業があまりにも激務だと体壊すこともあるけれど。それはそもそも本業が不快なわけなので週末起業とか無理にする必要もないのかもしれない。

快適さが人をダメにするのはなぜか

黒澤明の「生きる」を見た

最後が妙にリアル

この映画の最後は結局大きく変わらなかった。それがいいんだと思う。一人の男が文字通り自分の命を懸けて作り上げた結果があって、でも周りの人間はそんなに急には変われない。ただ確実に確かに、何かをなしたんだと思う。「渡辺さん」は何かをしたかった。それが公園だった。別に何でもよかったんだ。何か生きた証が欲しかったんだ。公園でなくてもよかったのかもしれない。事前情報もあえて知らないまま見ていたので、途中まではそれが恋愛だったり、息子夫婦との家族愛だったりするのだろうかと思いながら見ていたが、そうではなかった。多分身近な人たちとの愛を主題にとらえてもこの物語は成立したのかもしれない。でもそうではなかった。単に作品的な、絵的な都合もあったのかもだけど。それがよかった。周囲の人は簡単には変わらない、変えられない。たとえ一人の人間が命懸けで何かをなしたとしても、それでその後の日常生活は少しも変わらない。いや、ほんの少し感銘を受けていた人もいたけど。彼も結局はそれほど大きく変化はできなかった。でも自分は変われるし、遺したものは確実にそのあとの未来を生きていく子供たちの遊ぶ場所になった。そういう変えられないものと変わりゆくものが同時にとらえられていて、ラストシーンはとても印象に残るものだった。憎たらしい相手にも目もくれずに、30年忘れていた夕焼け空のきれいさにも心を浸す余裕も捨てて、それでも最後に生きた証を残して死んでいったのだ。

生きてない。死んでないだけ

前半は文字通り渡辺さんは生きていなかった。事務員の女性にもミイラなんてあだ名を(こっそりと)付けられていたくらい、生気のない生活をしていたんだ。それがまさに死の宣告を受けてから、いきることになった。死んだから生きた。すっごい皮肉だと思う。それほど役所のハンコを押すだけの仕事は彼の生気を活力を奪っていたのだろうか。まあ現実には今は結構忙しい公務員もいるし、役所の人間全員が暇なわけではないだろうが。それでも似たような人は存外多いのではないか。俺だってそうだ。生きていない、死んでないだけだ。それは多分平和ってことでもあるんだろうけど。途中出てきた事務員だった女性がウサギの人形を作っている工場に転職していたけれど、彼女はそんなつまらなくて死んでいないだけの暇な職場が嫌だったんだろう。だから忙しくてもやったらやっただけ給料が出る歩合制の工場勤務にしたんだ。彼女はかなり渡辺さんに対して重要な視点をくれたキーパーソンだった。なかなか現実にはいないタイプだ。そもそも50過ぎた?おっさんによくもまああれだけ付き合ってあげたもんだ。とはいえ最後にはいくらただ飯おごってもらえるとしても、陰気なおっさんとお出かけするのには飽き飽きしていたみたいだったけど。それでも彼女のおかげで、渡辺さんは何をやっても満たされなかった人生最後の過ごし方のヒントを得ることができた。メフィストよろしく、黒づくめの怪しい小説家に連れまわされ、夜の街に出かけて浴びるように酒を飲んでも何か満たされない。そりゃそうだ。自分が変わったんでも、何かをなしたんでもなく、単に金を払ってサービスを受けただけだもの。一時のストレス解消には効くんだろうが、死を前にした人間の心の寂しさを紛らわすことはできない。多分こういうことなんだ。酒飲んでフラフラの頭でぼーっとなって気持ちよくなるんじゃなく。好きな映画やらアニメやら、あるいは誰かが頑張っているスポーツ観戦なんかをして、疑似的に死に物狂いの瞬間を摂取するんでなく。それは結局一時的なものだし、他人の人生なんだ。なんだっけな。最強伝説黒沢という漫画でも導入にサッカー観戦で盛り上がっていることに内心冷めた視線で自分を観察していた主人公がいたな。あれも他人の勝利の喜びを疑似的に体験している現実を見つめてしまった薄ら寂しい中年独身の心の中だったんだろう。きっとみんな年齢も性別も置かれた環境も違っても、多かれ少なかれ似たような心境になることはある。俺も世間的にはまだまだ若造という年齢なんだけど、たぶん何もしていかないと、こういう中年になるのは、たぶんきっと、あっという間だ。ま、人生妥協も必要だったりするのだろうか。でも他人の人生から感動をもらうだけの生き方をしているときっとどこかで限界が来る。今はまだその時じゃない、その時じゃないって言っていると、気づいたら渡辺さんになっていそうだ。彼は本当に死んでしまう前に、死に直面したことで、またもがき苦しんだことによって最後の最後に生きることができたんだ。かっこいいじゃないか。生きるとは死ぬことで、死ぬことが生きることなんだ。ちょっと意味が分からないけど。

なんか最近ポエムが多くなってきた。疲れているのか、ハイになっているのか、はたまたちょっとした心境の変化なのか。どうでもいいけど実は黒澤明監督作品をちゃんと見たのはこれが初めてだったりする。やはりすごい。心理描写とか全体の構成はもちろんなんだけど、描写の仕方といえばいいのか、カメラアングルとかも本当にいい。画面の奥行、フレームに入らない左右の空間も自然に演出していたり、あとは緩急というか場面の静と動の切り替えが本当に見事だ。これが今から半世紀以上も前の作品だと思うともう本当に感動した。映画とかあんまり見ないが、これが死後も長年評価されている人の作品のすごみなのか。いや、よかった。

とにかくなにより”量”が足りない

質よりもまずは量

これは自分の欠点の一つなんだけど何よりも量をこなすという習慣がない。自分で言うのもなんだけど結構要領は悪くない人間なのである程度コツをつかむというのは案外早めにできるほうだと思う。そのせいなのか一つのことを極めるということをせずについついあっちへ行ってはこっちへ行き、少しつまみ食いをしてある程度のところまで至ったら見切りをつけて辞めちゃう。そんなこんなで大体のことは6,70点くらいでやめてしまうのだ。これが80点平均ならもう少し何とかなったのかもしれないけど、残念ながら器用貧乏選手権の中でも中途半端というかそこそこ器用なくらいで器用貧乏の領域に足を踏み入れてしまった貧乏貧乏なんだ。意味がわからないな。 昨日も書いたが継続する勇気というのも当然大事なんだけど、ある程度の領域から先に行くときに必要になるのはやはり圧倒的に量なんだと思う。質もまあ大事っちゃ大事なんだがそれが本当に要求されてくるのはもっと踏み込んだ後の話なんじゃないのか。そして俺の場合は踏み込むことができない。物事の入り口から少し入ったところである程度こなした段階で満足しちゃう。うーんいや違うな。満足してるんじゃなくてある程度から先の領域に踏み込んでいくのが怖いんだ。怖くてたまらない。それをこの辺までやったし俺はもう満足だわって言って言い訳しているんだろう。ある程度のライン、それを超えていくためにとかく量をこなす。そのためにはどうしたらいいのか。わからないけど根性とかではきっと挫折しちゃう。がむしゃらに何かやりつつも工夫を積み重ねていくことが必要だ。

時間配分、環境、人付き合い

人が変わる方法は3つしかない

1番目は時間配分を変える。

2番目は住む場所を変える。

3番目は付き合う人を変える。

これはあの意識の高い人たちが必ず読んでいるであろう、大前研一氏の言葉だ。あんまりこういう人の言っていることはキッツいことが多いので俺はそんなに好きじゃないんだけど。まあでもやっぱり耳が痛いことっていうのは大体当たっているというか直視したくない現実であることが多いんではないかな。今の自分にとってすぐにでもできるのは1番目だ。住む場所とかはちょっとすぐにってわけにはいかない。人付き合いは。。。まあそもそもないのでここもネットなんかでつながるように行動するだけでも結構大きく変わりそうだ。ま、それよりも仕事ができる人のいる職場にでもなんとか潜り込んじゃうのが一番コスパいいんだろうけど。やっぱそういうことかな。 それは置いといて、とにかく生活する上での時間配分を変えないと話にならない。ここで重要なのは意志の力とかいうよくわからないものに頼っちゃだめだってことだ。最近はいろんなところで意志の力単体では実はそれほど大きな効果を発揮することはできないというのが言われている。そう、人間の意志の力なんてのはちっぽけなもんだ。むしろ大事なのは仕組み、工夫だ。そういううまく回る歯車みたいなものを作ることに全力を尽くすべきだ。今の俺がすべきはそこなのだ。フリーターでうだうだやっているくらいならいっそ恥を忍んで一気にどっかの組織に潜り込んじゃうか、当然最初は使い物にならないけど、たぶん1年もすれば大きく変わっていける。現実的じゃないけど自分で組織を作るかとかもいい。これは追い詰められたらいっそのこと行けるところまで行ってしまうのもありかもね。普通に働いたほうが楽だろうけど。 ただ俺みたいにあまりにも意志薄弱だとこういう工夫することとか、仕組みを作っていくこと自体もなかなか苦しい。その過程で心が折れるなんてのも日常茶飯事だったりする。正直どうしたらいいのかわからん。ただもう最近は25にもなっちゃうしそんなことも言ってられないくらい追い詰められた感がある。のでやっぱりやっていくしかないんだろう。窮鼠猫を嚙む、俺は追い詰められた臆病なねずみだな。そこそこ基礎能力はある、と信じたいけど、くせにメンタルがカスだから何するにも中途半端でやめてしまう。いやもう基礎能力のほうも年齢の割には低くなっちゃてるのかも。でもだからこそ猫をかみ殺さなきゃならん。そうしないと俺は生きていけん。本当に死んじゃうとかじゃないんだけど、たぶんこの今というのは自分の人生的に実は大きな分水嶺になっているような気がしている。なんだか最近いろいろと節目というかタイミング的なものを感じていて、どうなんだろう、ここで逃げたら30職歴なしスキルなしおっさんの誕生まで一直線な気がしているんだ。今やるべきことは何なのだろう。一応再就職に向けて行動はしているつもりだけど、たぶん見当違いというか何か違和感もある。もっとそこのところを直視してやらないとだめなのか。

気持ち悪い

行動はしているはずなのに何か不安が付きまとってしまう。まだまだ暇なのかな。もっと自分を追い込んでいったほうがいいのか。ああ、やっぱり怖いな。現実と向き合うのが。こんなこと言ってる25歳いるか?みんなそれなりに社会経験積んで大体一人前って認められるようになってきて、中にはしっかりと働いている中で、もう家庭を築いている人もいるのに。そういう人たちがいる中に再び飛び込んでいくことに不安しか感じない。年齢はただの数字だ、なんていう人もいるみたいだ。確かにそうだ。単なる数字なんだろう。でも確実に蓄積されてきた歴史でもある。年齢っていうのはその人の道程の目安だ。社会的に判別するための一つの基準だ。自分で自分を縛る必要なんかないけど、周りは確実にその数字で判別してくる。そういう目線に自分は果たして耐えられるのか。。。認められるために必死こいてやっていくしかないんだ。ああ、こんなこと書いてる自分が気持ち悪い。気持ち悪い。そういう自意識なんか持っちゃているのも気持ち悪い。そんな感じでいろいろ書いていたら気持ちが落ち着いてきた。やっぱりネガティブな感情を吐き出すために何か書いていくのはいい。だいぶ気持ちの整理がついた。

まあとにかくやっていこう

死にたい欲が出てきて疲れてる感じ

なんかまとまらないので書きなぐる。内容は多分くそ、実際はそこまで深く悩んでないけど、思うままに書いてみる

ここ最近のこと

正直最近いろいろ頑張って社会にどうやって帰属していこうかなあなんて殊勝なことをひたすらに考えていて、きっとたぶんいい方向に向かっているような気がしていた。でもどうしても時々気持ちの落ち込む時期というか気分の谷間に落ち込むことがあって、でもそれは小さな谷間だったからあまり気にはしてなかったんだけど、どうもここ数日はちょっと大きめのものにひっかっかってしまっているようだ。単にちょっと疲れてしまっているだけだと思うのでちゃんと休んだらいいんだろうけど、ちょっと立ち止まって考えてみたい。ずっとこんな感じなんだ自分の人生は。ある程度何かに取り組み始めると最初の滑り出しはそんなに悪くはないんだけど、ちょっと継続すると途端に息切れしてしまう。このブログで最初に宣言した「ゲーム作り」だの「脱フリーター」だの言うだけ言って全然実行出ていない。これは単にやる気がないとかいう問題じゃないのかもしれない。特に能力的に平均的な人に比べて劣っているとか絶望的に要領が悪いとかいうことではない。きっとこういうことだと思う。

勇気がない

もう絶対的に目を背け続けてきた問題だ。これは幼いころから何一つちゃんと継続できてこなかった自分の呪いみたいなもんだ。何をするにしても中途半端で終わっていてどうにもこうにも続けられることができなかった。習い事、部活動、人付き合い、勉強、遊び、仕事。なんでもそうだけど決定的に続けることができていない。「可能性」を捨てたくない現実を見たくないんだ。例えば小説とか漫画とかの雑誌に投稿もせず、モニターとにらめっこして、好きな創作活動をして好きなように書いた作品をネットに上げる。もしかしたらいつかある日とんでもないウルトラミラクルが起きてその作品が日の目を浴びることがあるかもしれない。そうしたら何物でもない自分じゃなくてさっそうと現れた期待の新人作家として紙面を飾ることになるのだろう。でもこれが正攻法で投稿をしていたらどうか。多分早々に現実を知る。何度も落とされる、お前は凡人だと突きつけられる。でもそれでも何度も作品を書いて応募して、いつかは作家になれるかもしれない。ダメだったとしても、やり切ってする後悔なんだからきっとそんなに気持ちの悪いもんじゃない。そうなったら多分別のことにもまた挑戦していく気持ちの切り替えができるだろう。こういう世の中の基準に照らしあわされて徹底的にお前は何物でもない凡人なんだよとぐちゃぐちゃにされるのが怖いんだ。でもそうやって自分の社会的な立場を客観視しなきゃきっと次には進めない。そのうえで継続していく勇気を持たないといけないんだ。評価されることから、入り組んで難しくなっていく課題から逃げるのは気持ちいい、気楽だ。だって未評価なんだから、まだどうなるかなんてわからない。じつはとってもすごい人間かもしれない。でも一歩踏み出してしまえば?分かってる、多分もう普通以下だ。わかってるからこわくて踏み出せない。こんな自分が本当に嫌になる。まあ別に創作活動をしているわけじゃないからこういうたとえ話はあってるかわからないけど。

メンタルがくそすぎる

これは本当にどうしたらいいのかわからない。上の「勇気」とも被るけど、とかく俺は精神力が弱くてくそ人間すぎる。いや本当に心の弱さはどうしたらいいのか。ぶっちゃけ嫌なことがあると自分に言い訳するのが癖になっているし、嫌なことから逃げる言い訳とかもう慣れたもんだ。でも本当はそういうところで逃げずに立ち向かいたい。でもどうしたらいいのかわからないんだ。心を鍛えたらいいのだろうか。どうしたら心は鍛えられるんだろう。元のメンタルが豆腐みたいなもんだから鍛えるったってそもそもちょっと刺激与えたらグニャグニャになっちゃう。強い鉄なら熱してカンカンとたたき続けることでどんどん固くなるんだろうが、熱してカンカンたたいたら俺のメンタルは豆乳になっちゃう。固形物どころか液体だ。どうしたらいいのだろう。何度もぎりぎりの衝撃を与えて見極めてちょっとづつでも強くなっていくしかないんだろうか。正直嫌だ。そんなの今更やりたくない。薬でも飲んで何があってもへこたれない心を手に入れて社会に出たい。心がマヒした状態ならばきっといいパフォーマンスできると思う。過度に緊張したりするから普段の実力の半分も出ない事態になるんだ。でもこれって麻薬とかアルコールじゃねえか。それはさすがにいかんな。すこしづつ慣らしていくしかないんだろうか。くそみたいにしょうもない弱い心が3週間で松岡修造並みの熱いハートを持った強い心に生まれ変わる、熱血!うんちメンタルトレーニング!とかあったら30万でも出すのに。いや50でも出す。うんちだけに

まあとにもかくにも

やっていくしかないんだろう。とりあえずバイト増やすとかよりもういっそエージェント行ってさっさと再就職しちゃうのが費用対効果高い気がしてきた。リミットは遅くとも来年中だから、早いってことはないか。もうやっちゃうかな