ただの日記

日記帳

気負うのってのは疲れるしあんまり意味がない

自戒の念を込めて


気負ってやろう遣ろうとしていることに限って全然うまくいかない。当然なんだけど、気負っているってのはものすごく意識しているということだ。自分のやっていることに適度に意識を向けるのはいいことなんだろうが、この加減がなかなか難しいもんでついつい、いきすぎちゃう。大体元来繊細というか気の小さい人間なのでどうしても人に見られることを意識したりだとか、結果を確実に出していかないといけない、みたいな状況はかなり分が悪そうな感じだ。だからなのか最近のブログ、というかマジではてなブログ型の日記帳になってきたけど、誰かに見せられるものを、とか考えないと反対に妙に気軽に書けるもんだ。実はこのブログを始める前にちょっと頑張って面白ブログみたいなものをやってみようとしたことがあった。恥ずかしいが、今考えてみると本当に面白くないくそみたいなもので、でも結構書くのに労力がかかっていたと思う。大したことは書いていないし、分量だってそれほど大きいものでもなかったのになぜあんなにも書くのが億劫で大変に感じていたんだろう。やっぱり気負っていたからなんだろうな。つまり何も考えずにただ感じたままにとりあえずやってみる、みたいなことができなかったんだ。とりあえずやってみる。これって実はかなり大事なことで特に俺みたいな頭でっかちにはこういうとっかかりは効果的だ。だって始める前からうだうだと未来予想図を描き始めるもんだから、まあ進まない。この進行の遅さってのは致命的だ。どうせ影響力なんて皆無で大した内容もないんだからちゃっちゃと始めるのがいいんだ。で、とりあえずやってみて、あんまり合わなければすぐにやめて別の方向に向かえばいい。そう、トライ&エラーだ。こういうのを繰り返していくと自分の向き不向きというやつがかなりはっきりしてくる。好きとか嫌いとか、できそうとか苦手そうとか言ってやってみなければそうそうその分野・世界のことはみえてこない。やってみれば案外簡単にできるかもしれないし、まあ逆にやっぱりダメだったりもすることもあるだろう。でもやってみて、試してみての実感は強いな。頭の中だけで考えていることというのはけっこう的外れなことも多いし。そうやって世界を広げていけたら楽しく過ごせる空間も広がるし、以前は苦手だったものも存外好きになっていることだってあるかも。とかくやり始めの時ほど、やってやってやってやって、やってみてある程度行くまでは余計なことは考えないのがいい。下手な考え休むに似たりだ。
下手な考え休むに似たり。。つまり俺は休んでばっかだったということか。そりゃあ周りと比べてなんか足りないなあと感じていたのもうなずける。というか本当に休んでいた人に比べて、下手に考えていた、というか意味もなく考え込んで迷って悩んでいた分、妙に疲れることも多かったし、もうほんと意味ないな。

ついでに他人の幸福とか不幸とかについて


そういえばこの前から思っていたことで、他人の不幸は蜜の味、ということわざ?について考えていたことがある。これはつい最近まで自分にもあったことなんだけど、人が幸せになっている場面を見て単純に祝ってやるとか、そこまでいかなくても喜ばしいことだと本当の意味で祝福の気持ちをもってやれるのは案外難しい。SNSとかで言ういいねボタンなんかも、もしも有料というか同情するなら金をくれ!ではないけど、いいねをするたびに一定額投げ銭しちゃうみたいなものだったら果たしてどれほどみんないいねができるだろう。でも反対にものすごーく不幸な投稿に対してであればどうかな。意外と金払ってでもいいねしたくなるのではないだろうか。そこにはいろんな感情があるだろうが。単にこの金でうまいもんでも食って元気出せよ!みたいな太っ腹な気持ちから出てくるものかもしれないし一概に他人の不幸を喜んでいるわけではないと信じたい。でもやっぱり人が幸せそうにしている場面というのはこう、なかなか祝福するのは難しいな。その人が知り合いで人となりも知っていてようやく芽吹いて春きたる、みたいな感じであればだれでも素直におめでとう!できるのかもね。
で、まあこういう心理があるのは昔からよく言われているわけだけど、冷静になって考えてみるとよく知りもしない他人が幸せになろうが不幸になろうが、そんなもんどうでもいい。ただでさえ足りない時間と脳細胞の無駄遣いなだけだ。世界の幸せの総量が決まっているのであれば人が幸せになるぶん自分の取り分が減るんだろうが、んなわけない。単純に資源の話とかだったら別だろうが、それはそれでもっと巨大なお話になっちゃうので個人ではどうすることもできんし。じゃあやっぱり他人のラッキーとかアンラッキーな出来事があったとしてもそれは俺には関係ないのだ。だからどうということもないけど、まあいいか