ただの日記

日記帳

黒澤明の「生きる」を見た

最後が妙にリアル

この映画の最後は結局大きく変わらなかった。それがいいんだと思う。一人の男が文字通り自分の命を懸けて作り上げた結果があって、でも周りの人間はそんなに急には変われない。ただ確実に確かに、何かをなしたんだと思う。「渡辺さん」は何かをしたかった。それが公園だった。別に何でもよかったんだ。何か生きた証が欲しかったんだ。公園でなくてもよかったのかもしれない。事前情報もあえて知らないまま見ていたので、途中まではそれが恋愛だったり、息子夫婦との家族愛だったりするのだろうかと思いながら見ていたが、そうではなかった。多分身近な人たちとの愛を主題にとらえてもこの物語は成立したのかもしれない。でもそうではなかった。単に作品的な、絵的な都合もあったのかもだけど。それがよかった。周囲の人は簡単には変わらない、変えられない。たとえ一人の人間が命懸けで何かをなしたとしても、それでその後の日常生活は少しも変わらない。いや、ほんの少し感銘を受けていた人もいたけど。彼も結局はそれほど大きく変化はできなかった。でも自分は変われるし、遺したものは確実にそのあとの未来を生きていく子供たちの遊ぶ場所になった。そういう変えられないものと変わりゆくものが同時にとらえられていて、ラストシーンはとても印象に残るものだった。憎たらしい相手にも目もくれずに、30年忘れていた夕焼け空のきれいさにも心を浸す余裕も捨てて、それでも最後に生きた証を残して死んでいったのだ。

生きてない。死んでないだけ

前半は文字通り渡辺さんは生きていなかった。事務員の女性にもミイラなんてあだ名を(こっそりと)付けられていたくらい、生気のない生活をしていたんだ。それがまさに死の宣告を受けてから、いきることになった。死んだから生きた。すっごい皮肉だと思う。それほど役所のハンコを押すだけの仕事は彼の生気を活力を奪っていたのだろうか。まあ現実には今は結構忙しい公務員もいるし、役所の人間全員が暇なわけではないだろうが。それでも似たような人は存外多いのではないか。俺だってそうだ。生きていない、死んでないだけだ。それは多分平和ってことでもあるんだろうけど。途中出てきた事務員だった女性がウサギの人形を作っている工場に転職していたけれど、彼女はそんなつまらなくて死んでいないだけの暇な職場が嫌だったんだろう。だから忙しくてもやったらやっただけ給料が出る歩合制の工場勤務にしたんだ。彼女はかなり渡辺さんに対して重要な視点をくれたキーパーソンだった。なかなか現実にはいないタイプだ。そもそも50過ぎた?おっさんによくもまああれだけ付き合ってあげたもんだ。とはいえ最後にはいくらただ飯おごってもらえるとしても、陰気なおっさんとお出かけするのには飽き飽きしていたみたいだったけど。それでも彼女のおかげで、渡辺さんは何をやっても満たされなかった人生最後の過ごし方のヒントを得ることができた。メフィストよろしく、黒づくめの怪しい小説家に連れまわされ、夜の街に出かけて浴びるように酒を飲んでも何か満たされない。そりゃそうだ。自分が変わったんでも、何かをなしたんでもなく、単に金を払ってサービスを受けただけだもの。一時のストレス解消には効くんだろうが、死を前にした人間の心の寂しさを紛らわすことはできない。多分こういうことなんだ。酒飲んでフラフラの頭でぼーっとなって気持ちよくなるんじゃなく。好きな映画やらアニメやら、あるいは誰かが頑張っているスポーツ観戦なんかをして、疑似的に死に物狂いの瞬間を摂取するんでなく。それは結局一時的なものだし、他人の人生なんだ。なんだっけな。最強伝説黒沢という漫画でも導入にサッカー観戦で盛り上がっていることに内心冷めた視線で自分を観察していた主人公がいたな。あれも他人の勝利の喜びを疑似的に体験している現実を見つめてしまった薄ら寂しい中年独身の心の中だったんだろう。きっとみんな年齢も性別も置かれた環境も違っても、多かれ少なかれ似たような心境になることはある。俺も世間的にはまだまだ若造という年齢なんだけど、たぶん何もしていかないと、こういう中年になるのは、たぶんきっと、あっという間だ。ま、人生妥協も必要だったりするのだろうか。でも他人の人生から感動をもらうだけの生き方をしているときっとどこかで限界が来る。今はまだその時じゃない、その時じゃないって言っていると、気づいたら渡辺さんになっていそうだ。彼は本当に死んでしまう前に、死に直面したことで、またもがき苦しんだことによって最後の最後に生きることができたんだ。かっこいいじゃないか。生きるとは死ぬことで、死ぬことが生きることなんだ。ちょっと意味が分からないけど。

なんか最近ポエムが多くなってきた。疲れているのか、ハイになっているのか、はたまたちょっとした心境の変化なのか。どうでもいいけど実は黒澤明監督作品をちゃんと見たのはこれが初めてだったりする。やはりすごい。心理描写とか全体の構成はもちろんなんだけど、描写の仕方といえばいいのか、カメラアングルとかも本当にいい。画面の奥行、フレームに入らない左右の空間も自然に演出していたり、あとは緩急というか場面の静と動の切り替えが本当に見事だ。これが今から半世紀以上も前の作品だと思うともう本当に感動した。映画とかあんまり見ないが、これが死後も長年評価されている人の作品のすごみなのか。いや、よかった。

とにかくなにより”量”が足りない

質よりもまずは量

これは自分の欠点の一つなんだけど何よりも量をこなすという習慣がない。自分で言うのもなんだけど結構要領は悪くない人間なのである程度コツをつかむというのは案外早めにできるほうだと思う。そのせいなのか一つのことを極めるということをせずについついあっちへ行ってはこっちへ行き、少しつまみ食いをしてある程度のところまで至ったら見切りをつけて辞めちゃう。そんなこんなで大体のことは6,70点くらいでやめてしまうのだ。これが80点平均ならもう少し何とかなったのかもしれないけど、残念ながら器用貧乏選手権の中でも中途半端というかそこそこ器用なくらいで器用貧乏の領域に足を踏み入れてしまった貧乏貧乏なんだ。意味がわからないな。 昨日も書いたが継続する勇気というのも当然大事なんだけど、ある程度の領域から先に行くときに必要になるのはやはり圧倒的に量なんだと思う。質もまあ大事っちゃ大事なんだがそれが本当に要求されてくるのはもっと踏み込んだ後の話なんじゃないのか。そして俺の場合は踏み込むことができない。物事の入り口から少し入ったところである程度こなした段階で満足しちゃう。うーんいや違うな。満足してるんじゃなくてある程度から先の領域に踏み込んでいくのが怖いんだ。怖くてたまらない。それをこの辺までやったし俺はもう満足だわって言って言い訳しているんだろう。ある程度のライン、それを超えていくためにとかく量をこなす。そのためにはどうしたらいいのか。わからないけど根性とかではきっと挫折しちゃう。がむしゃらに何かやりつつも工夫を積み重ねていくことが必要だ。

時間配分、環境、人付き合い

人が変わる方法は3つしかない

1番目は時間配分を変える。

2番目は住む場所を変える。

3番目は付き合う人を変える。

これはあの意識の高い人たちが必ず読んでいるであろう、大前研一氏の言葉だ。あんまりこういう人の言っていることはキッツいことが多いので俺はそんなに好きじゃないんだけど。まあでもやっぱり耳が痛いことっていうのは大体当たっているというか直視したくない現実であることが多いんではないかな。今の自分にとってすぐにでもできるのは1番目だ。住む場所とかはちょっとすぐにってわけにはいかない。人付き合いは。。。まあそもそもないのでここもネットなんかでつながるように行動するだけでも結構大きく変わりそうだ。ま、それよりも仕事ができる人のいる職場にでもなんとか潜り込んじゃうのが一番コスパいいんだろうけど。やっぱそういうことかな。 それは置いといて、とにかく生活する上での時間配分を変えないと話にならない。ここで重要なのは意志の力とかいうよくわからないものに頼っちゃだめだってことだ。最近はいろんなところで意志の力単体では実はそれほど大きな効果を発揮することはできないというのが言われている。そう、人間の意志の力なんてのはちっぽけなもんだ。むしろ大事なのは仕組み、工夫だ。そういううまく回る歯車みたいなものを作ることに全力を尽くすべきだ。今の俺がすべきはそこなのだ。フリーターでうだうだやっているくらいならいっそ恥を忍んで一気にどっかの組織に潜り込んじゃうか、当然最初は使い物にならないけど、たぶん1年もすれば大きく変わっていける。現実的じゃないけど自分で組織を作るかとかもいい。これは追い詰められたらいっそのこと行けるところまで行ってしまうのもありかもね。普通に働いたほうが楽だろうけど。 ただ俺みたいにあまりにも意志薄弱だとこういう工夫することとか、仕組みを作っていくこと自体もなかなか苦しい。その過程で心が折れるなんてのも日常茶飯事だったりする。正直どうしたらいいのかわからん。ただもう最近は25にもなっちゃうしそんなことも言ってられないくらい追い詰められた感がある。のでやっぱりやっていくしかないんだろう。窮鼠猫を嚙む、俺は追い詰められた臆病なねずみだな。そこそこ基礎能力はある、と信じたいけど、くせにメンタルがカスだから何するにも中途半端でやめてしまう。いやもう基礎能力のほうも年齢の割には低くなっちゃてるのかも。でもだからこそ猫をかみ殺さなきゃならん。そうしないと俺は生きていけん。本当に死んじゃうとかじゃないんだけど、たぶんこの今というのは自分の人生的に実は大きな分水嶺になっているような気がしている。なんだか最近いろいろと節目というかタイミング的なものを感じていて、どうなんだろう、ここで逃げたら30職歴なしスキルなしおっさんの誕生まで一直線な気がしているんだ。今やるべきことは何なのだろう。一応再就職に向けて行動はしているつもりだけど、たぶん見当違いというか何か違和感もある。もっとそこのところを直視してやらないとだめなのか。

気持ち悪い

行動はしているはずなのに何か不安が付きまとってしまう。まだまだ暇なのかな。もっと自分を追い込んでいったほうがいいのか。ああ、やっぱり怖いな。現実と向き合うのが。こんなこと言ってる25歳いるか?みんなそれなりに社会経験積んで大体一人前って認められるようになってきて、中にはしっかりと働いている中で、もう家庭を築いている人もいるのに。そういう人たちがいる中に再び飛び込んでいくことに不安しか感じない。年齢はただの数字だ、なんていう人もいるみたいだ。確かにそうだ。単なる数字なんだろう。でも確実に蓄積されてきた歴史でもある。年齢っていうのはその人の道程の目安だ。社会的に判別するための一つの基準だ。自分で自分を縛る必要なんかないけど、周りは確実にその数字で判別してくる。そういう目線に自分は果たして耐えられるのか。。。認められるために必死こいてやっていくしかないんだ。ああ、こんなこと書いてる自分が気持ち悪い。気持ち悪い。そういう自意識なんか持っちゃているのも気持ち悪い。そんな感じでいろいろ書いていたら気持ちが落ち着いてきた。やっぱりネガティブな感情を吐き出すために何か書いていくのはいい。だいぶ気持ちの整理がついた。

まあとにかくやっていこう

死にたい欲が出てきて疲れてる感じ

なんかまとまらないので書きなぐる。内容は多分くそ、実際はそこまで深く悩んでないけど、思うままに書いてみる

ここ最近のこと

正直最近いろいろ頑張って社会にどうやって帰属していこうかなあなんて殊勝なことをひたすらに考えていて、きっとたぶんいい方向に向かっているような気がしていた。でもどうしても時々気持ちの落ち込む時期というか気分の谷間に落ち込むことがあって、でもそれは小さな谷間だったからあまり気にはしてなかったんだけど、どうもここ数日はちょっと大きめのものにひっかっかってしまっているようだ。単にちょっと疲れてしまっているだけだと思うのでちゃんと休んだらいいんだろうけど、ちょっと立ち止まって考えてみたい。ずっとこんな感じなんだ自分の人生は。ある程度何かに取り組み始めると最初の滑り出しはそんなに悪くはないんだけど、ちょっと継続すると途端に息切れしてしまう。このブログで最初に宣言した「ゲーム作り」だの「脱フリーター」だの言うだけ言って全然実行出ていない。これは単にやる気がないとかいう問題じゃないのかもしれない。特に能力的に平均的な人に比べて劣っているとか絶望的に要領が悪いとかいうことではない。きっとこういうことだと思う。

勇気がない

もう絶対的に目を背け続けてきた問題だ。これは幼いころから何一つちゃんと継続できてこなかった自分の呪いみたいなもんだ。何をするにしても中途半端で終わっていてどうにもこうにも続けられることができなかった。習い事、部活動、人付き合い、勉強、遊び、仕事。なんでもそうだけど決定的に続けることができていない。「可能性」を捨てたくない現実を見たくないんだ。例えば小説とか漫画とかの雑誌に投稿もせず、モニターとにらめっこして、好きな創作活動をして好きなように書いた作品をネットに上げる。もしかしたらいつかある日とんでもないウルトラミラクルが起きてその作品が日の目を浴びることがあるかもしれない。そうしたら何物でもない自分じゃなくてさっそうと現れた期待の新人作家として紙面を飾ることになるのだろう。でもこれが正攻法で投稿をしていたらどうか。多分早々に現実を知る。何度も落とされる、お前は凡人だと突きつけられる。でもそれでも何度も作品を書いて応募して、いつかは作家になれるかもしれない。ダメだったとしても、やり切ってする後悔なんだからきっとそんなに気持ちの悪いもんじゃない。そうなったら多分別のことにもまた挑戦していく気持ちの切り替えができるだろう。こういう世の中の基準に照らしあわされて徹底的にお前は何物でもない凡人なんだよとぐちゃぐちゃにされるのが怖いんだ。でもそうやって自分の社会的な立場を客観視しなきゃきっと次には進めない。そのうえで継続していく勇気を持たないといけないんだ。評価されることから、入り組んで難しくなっていく課題から逃げるのは気持ちいい、気楽だ。だって未評価なんだから、まだどうなるかなんてわからない。じつはとってもすごい人間かもしれない。でも一歩踏み出してしまえば?分かってる、多分もう普通以下だ。わかってるからこわくて踏み出せない。こんな自分が本当に嫌になる。まあ別に創作活動をしているわけじゃないからこういうたとえ話はあってるかわからないけど。

メンタルがくそすぎる

これは本当にどうしたらいいのかわからない。上の「勇気」とも被るけど、とかく俺は精神力が弱くてくそ人間すぎる。いや本当に心の弱さはどうしたらいいのか。ぶっちゃけ嫌なことがあると自分に言い訳するのが癖になっているし、嫌なことから逃げる言い訳とかもう慣れたもんだ。でも本当はそういうところで逃げずに立ち向かいたい。でもどうしたらいいのかわからないんだ。心を鍛えたらいいのだろうか。どうしたら心は鍛えられるんだろう。元のメンタルが豆腐みたいなもんだから鍛えるったってそもそもちょっと刺激与えたらグニャグニャになっちゃう。強い鉄なら熱してカンカンとたたき続けることでどんどん固くなるんだろうが、熱してカンカンたたいたら俺のメンタルは豆乳になっちゃう。固形物どころか液体だ。どうしたらいいのだろう。何度もぎりぎりの衝撃を与えて見極めてちょっとづつでも強くなっていくしかないんだろうか。正直嫌だ。そんなの今更やりたくない。薬でも飲んで何があってもへこたれない心を手に入れて社会に出たい。心がマヒした状態ならばきっといいパフォーマンスできると思う。過度に緊張したりするから普段の実力の半分も出ない事態になるんだ。でもこれって麻薬とかアルコールじゃねえか。それはさすがにいかんな。すこしづつ慣らしていくしかないんだろうか。くそみたいにしょうもない弱い心が3週間で松岡修造並みの熱いハートを持った強い心に生まれ変わる、熱血!うんちメンタルトレーニング!とかあったら30万でも出すのに。いや50でも出す。うんちだけに

まあとにもかくにも

やっていくしかないんだろう。とりあえずバイト増やすとかよりもういっそエージェント行ってさっさと再就職しちゃうのが費用対効果高い気がしてきた。リミットは遅くとも来年中だから、早いってことはないか。もうやっちゃうかな

まだまだ暑いですが

なんというか一番暑いときが終わって少しずつ涼しくなってきた感じ

暑さ寒さも彼岸までといいますがホントそうですね

 

あとどうでもいいですが今日はちょっとクソなことが起きたので最低な日でした💩

いい年した大人が羽目を外しすぎるんじゃあないよ!!

眠れなくていろいろ考えてしまう

8月2日、夜中の1時です。

ねむいようで眠くなくて、寝れないんだけどそれほど不快ではない夜。窓開けてりゃ涼しいしね、新潟は夜くらいはまだ全国的にも涼しい方なのかな。

 

こういう時お酒グワァーっと飲んで強制的に寝るとか、気まぐれに夜の散歩に出かけてみて歩き疲れて寝るとかしたこともありました。今日はそこまでしなくても普通に寝れそうなんで、そんな事しませんけど。こういう日はいろいろ考えてしまいます。

とにかく今の自分に足りてないものは何だろうかと。いつもはスキルが、経験が、体力が、気合が、何よりお金が足りないのだという結論に達することが多いんですが、今日に限っては、あれ?ちがうのかしら?とか思ったり。

人との関りをもつ事と自分の気持ちに正直に向き合う事。これが圧倒的に足りていないのかもなあ、なんて人間嫌いで斜に構えがちな自分にしては珍しく思ったのでした。

 

理由はよくわからんけど多分こういう事なのかもしれない。具体的ななんやらかんやらも大事は大事なんですけど、そういうものの前にある何かがきっと欠けているんですよね、自分。だから根本的に大人になり切れていない、でもきっと子供でもない。アダルトチルドレン?的な感じなのかな。なんでそうなったのかは分からないですけど。きっと他人と摩擦していないから、きちんと子供であろうとしてこなかったから、自意識過剰でカッコ悪いんです。

 

なんかなに書いてんのかわけわかめ。眠くなってきたので、そろそろ寝ます

7月も終わる

ちょっとだけ、本当にちょっとだけなんだけど、前向きになれたような気がします。多分また気分の波でどうにも後ろ向きの気持ちになっちゃうと思うんですが、それでも少しずつ少しずつ現実に向き合っているのかもしれません。

 

思えば今年の頭に完全無欠なニートから脱出しようと思い立って、2月ごろかな?にバイト始めて、ほんでなんちゃってフリーターになって半年たちました。一応社会生活の基礎体力みたいなものはついてきたかなと思います。そろそろ具体的な次なるステップに取り掛かりたいもんですが、こないだバイトの面接で落とされて以降、結局何も行動できずじまいで。何かしらアクションを起こしたい時期に差し掛かっています。

 

流石に一番暑い時期は外しますけど、夏の終わりには新しい仕事だとかなんか取り掛かれているといいなあと考えながら毎日過ごしていますよ。

おらはこれからも意識低い系で生きていく