ただの日記

日記帳

継続と変化と

中身のない単なる日記だと閲覧数はこんなもん

普段あんまり見ないはてなブログのトップページを開いてみたらこんな記事が

「知らない人にブログを読まれるのが不安です」ひっそり日記を書きたい人へ〔はてなブログお悩み相談室〕

なるほど。まあそういう気持ちはわかるし私も最初は恥ずかしい気持ちはありました。でも実際書いてみるとわかりますが、そもそも個人ブログなんて大して読まれません。だってはてなブログのトップページに出てくるような面白いものとか、有名な人が書いてるものとかくらいしか読まないでしょう。だって自分がそうだからね。そんな有象無象が書いているような中身のないブログという名のらくがき帳なんざ、人生の大事な時間浪費してまでよみませんわ!

大勢の人に注目される文章ってのは有用性があったり、話題性があったり、あるいは特に役に立たなくてもなんかもうエモい内容で涙ちょちょぎれるみたいな文才やらセンスが無いと書けません。それ以前に継続自体も難しいですしね。大抵の人はブログなんて書くのめんどくさくなってやめるでしょ。TwitterとかInstagramとかTikTokのほうがいいじゃん!そのほうが単純に楽しいと思います。有用性のある内容を書くにはいろんな文献とか用意して構成とかもいろいろ読みやすいように考えてとかで、多分クッソめんどいでしょう。3日と持たない自信がある。

1年でやっと1000超えるくらい

で、そんなめんどくさがりが気の向くままに書いているブログという名の日記帳のアクセス数はこちらです。久しぶりに見たら累計1000超えててちょっとびっくり。

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このブログの閲覧数。一年でこれですからね

それでも最近は月100くらいのアクセスは超えるようになってきまして。滞在時間はおそらく一瞬なんでしょうけど。でも逆に言えばなんだかんだ1年で50記事弱位書いてきても普通の人だとこれくらいなわけです。だもんで読み応えのある中身のぎっしり詰まった薄皮アンパンくらい重たい生地を量産しまくるとか、自分の文才に絶対的な自信があるという人だとか以外は、よっぽど個人情報特定されそうなことでも書かなければ大丈夫だと言えます。もしかしたら私のブログが異常なまでに見られていないとかであれば違うのかもしれないけど。。。そんな感じのことを思った次第でございます。

継続の先に

閑話休題。昨年末に書いたこの記事の中で、新しいことを始めて、継続してということが結構大事だなあ。でもそれだけじゃなくて、継続のさらに先にもう一歩なにかありそうだ。とかいうことを書いたわけだけど、ここ数日も時々そのことについていろいろと考えを巡らせていた。

最初は継続と挑戦、みたいなものかなあとか思っていた。でもなんかしっくりこないんだよなあ。挑戦して継続して、挑戦して継続して、、、うん確かにすごくいい感じだ。でもこれだとなんか一方向って感じがする。ちょっと単調な感じ。結局はただの言葉遊びなんだけど、挑戦というよりも変化という言葉のほうが個人的にすごくしっくり来た。まあ何でもいいんだけど。去年の秋頃からいろいろなことに挑戦してはそれを一定期間以上、具体的には最低2週間位は続けるようにしている。最初のうちは大変だったんだけど、こういうことを2,3ヶ月と続けていくにつれてかなり継続することにも慣れてきた。でもなんか物足りないと感じることも。

なんでだろう。多分、多分だけど挑戦する内容というかジャンルが結局は似たような内容ばかりで、実際は大した変化が得られていないんじゃないのか。 多分小手先だけ変えてちょっとした満足感を得ちゃってるんじゃないのかと。いや別に悪いことではなくて少しづつでも前進してるんだし、何もしないより100億万倍マシなんだけど。 それでもこの継続しきった先にもう一歩前に進んで行くために本当にぜんっぜんやったことのないことをやっていってさ、人生に変化を入れていきたいところだ。やっぱり変わるってのは怖いけど、でもずーーーっと同じようなとこにいてコンフォートゾーンだっけか、そういう場所に居続けるのはもう飽きたんや、たちばなくん。せらさん好きだわあ。桐谷健太ってあんな感じの演技もできるとは知らなかった。ずっと浦島太郎のイメージしかなかったし。まあ、そんな感じで。もうねよ

受け身だと死ぬ・Age is just a number

とりあえず座右の銘にしよう

「受け身だと死ぬ」
いいですね。これを忘れないようにしよう。多分インドア、内向型人間あるあるだと思うんだけど、なにか外出するイベントが有ったとして、いざその前日とかになると、どうしようもなくめんどくさくなっちゃう。楽しみは楽しみなんだが、どうも行くのがめんどい。。。わかってる、楽しいのはわかってる。実際そういう心持ちになっても重い腰を上げて行ってみたら、不思議と楽しくってあっという間に時間が過ぎたりするしね。分かってるんだけどなあ。
でもこの謎の現象は何なんだろうか。つい先日もそういう事があって、結局面倒くささに負けて、断ってしまった。今振り返るともったいないなー。せっかく誘ってくれたのに、すまん。こういうことの積み重ねで自分の世界が狭くなっていくし、人と関わりを持つ時間も減っていきそうだ。MOTTAINAI!!

ちょっと言い訳をすると最近やりたいことが結構あって、外出イベントよりもそちらを優先させてしまったので、単にめんどくさいという気持ちだけが理由だったわけじゃないけど。まあでもそういうことじゃないよな。やっぱり。人生受け身でいいことなんてほっとんどないよ。もう頼まれたら物理的に無理ってこと以外は断らないようにしようかな。理不尽なことには当然断固Noを突きつけるけど、やっぱしやりたいことだったり、誰かがせっかく自分に頼んでくれたことがあるのなら、もう全部受けよう。そうしよう。

正月にいろいろ思ったこととか

毎年恒例の駅伝をちょっとだけ見ていたわけだけど、こういうの日本人好きだよなあとかなんとか思った。駅伝だの甲子園だの。10代後半〜20代くらいの人間の「青春」が好きすぎじゃね?見ていて熱くなるのはすっごくわかるし、自分もこういうやつ好きだけども。年齢という意味での「若さ」が大事にされ過ぎなんじゃないか。
英語で好きな言葉にAge is just a number(年齢は単なる数字)というものがある。これは色んな意味ですごく素敵だと思うし、同時に結構シビアで、ある意味アメリカらしい文言だと感じる。日本の新卒一括採用文化と、海外(ここではアメリカ)の実力主義みたいな違いかなと。日本は若けりゃそれだけで大きなアドバンテージになるし、それこそ20歳前後の若者にはその時点での実力とか経験とか実績とかは求めずに、今後の伸びしろで判断する。逆に米の国はもうそんなンなくてお前に何ができるのか、どういう実績があるのかっていうのが何歳だろうが求められる。まあだから最初は無給でインターンとかして経験積んでから就職するんでしょ?それはそれで結構厳しさはある。

自分のことには自分自身で責任持ってやってこうぜ!という方がとても健全なんじゃないのかなあ。その分自分で思う通りの自分にしかなれないんでしょうけど、反対にお前の心はお前自身が決めてるんだぜ!って感じがしてとてもいい感じがする。ああなんかアメリカっぽいな。グレンラガンでいうカミナみたいなイメージ。。
なんていうのかな、自分の人生はもう年齢的にどうしようもなくて青春なんてもう来ないんだと決めつけちゃうと、人の青春見て盛り上がることが唯一の楽しみ、みたいになってしまうのだろうか。それはとても寂しい。だって人生平均で80年あるからね。100まで生きたらどうすんのよ。50歳でもあとまだうん十年あるわけだし、年齢を言い訳にするのは楽だけど楽しくないよ。そんなことを思った正月だったりした。

最近楽しい

ブログを始めて1年たった

とは言うものの結局余り書くこともできていないし、最近は普通に手元の日記帳を利用しているわけだけど。ただこの一年は今まで過ごしてきた中でも一番穏やかな時間だったと思う。何よりも外的なプレッシャーがなくなったことがこんなにも気持ちに変化をもたらすものだとは思わなかった。。。

物心ついたのは大体5歳位。幼稚園の頃はよくお漏らししていて幼稚園の先生にもいろいろご迷惑おかけしました。確か図体だけはでかくて、でもいじめられていたのでついたあだ名が「ウドの大木」。卒園アルバムの将来の夢は学者さんだったか。

小学校の頃はとにかく運動が嫌いになった時代だったと思う。ドッジボールとか親にやらされては半日でべそかいてやめ、スイミングスクールもなんだかよくわからないうちに気がつけば行かなくなり。意を決して自分から始めてみたミニバスは確か数日でギブアップした、これは自分のメンタルの弱さゆえですね。そもそも学者さんになりたい子供にいろいろと運動させようとした親にもあんまり先見の明はなかったのかもしれんが、、まあでも両親はどちらかといえば運動できるタイプだったから自分の息子も同じように運動ガンガンしようぜしてもらいたかったに違いない。でもムリなものはムリ!!反面勉強は割と好きだった。本を読むのとかも好きで結構図書室にはこもっていたと記憶している。それはそれで楽しかった。

中学はなんだかんだ楽しかった。気の合う友達もいたし、勉強も割とうまく行っていた。自分自身の恋愛とかは皆無でしたが、たしかこの頃クラスの誰それがもう初体験を済ませただのという噂があったなあ。今考えても中2とかでそれは早くないか・・・?現実はこんなもんなんですかね?この頃はこんなんなるとは夢にも思わず、自分の将来はいわゆる普通のレールに乗っかていけるもんだと薄らぼんやり考えていた。現実は無情だ、ほんとに。

高校は割と進学校だったのでひたすらに勉強していた思い出が、、それでも結構楽しかったけど。今思えばいろいろなイベントもあったし、あれはあれで充実した学生生活というやつだった。大学受験には失敗して滑り止めの私立に行くことになったわけだが、それもまあ。。そんなに辛くはなかったかな。あのとき浪人していたらどうなっていなんだろうか。

大学は、、、うーん、楽しかったは楽しかったけど意外と自由には慣れなかった。多分最後までそうだ。多分このあたりからなんだよなあ。特に20歳になったあたりから自分の人生をちゃんと謳歌してない感じになっていたんだ。多分与えられた枠の範囲内でなんだかんだブツクサ文句を言いながらそこそこ楽しむという事はできていたんだけど、なまじ真面目というか融通がきかない性格だから大学生という時間的に一番自由になれる空間に馴染めなかったんだ。主体性を持って何かをやるってことをやってこなかったもんだから、いきなり真っ白い空間に放り投げられて適応できなくなっていた。いわゆる普通の人だったらそういうことは難なくこなしちゃうんだろうか。自分はそれができなかった。就職活動でもどうにもこの気持にケリがつけられなくって、一年お休みして。渋々就職したところでやっぱりすぐやめちゃったし。その頃から5年かあ。長かったのか短かったのかはわからんけど。やっと生きてる実感を感じ始めている。気がする。わかんないけど。

今年を振り返って

去年は正直一言で言うと「停滞」という感じだった。なーんにもない。ダタひたすらなんにもせずにぼんやりしていた。寝転んだ一年。まあそれも大事なことだったのかもしれないけどさ。今年は思いっきり屈んだ一年だった。膝を曲げて力を溜めているというイメージ、これが多分「充電」いうやつなのかな。まあそういう実感を持ち始めたのも本格的には12月入ってからだけど。でもきっかけはなにかといえば多分このブログを始めたことだったのかもしれない。あんまり書けてないけど、大事なのはそういうことじゃなくてなんでもいいから新しいことを始めてみようっていう姿勢や行動だった。 一つが動き出すと次もゆっくりだけど多分ちゃんと動いていく。それが一時の3日坊主みたいなものでもいい。何かをやっていくことが大事なんだ。そうそう、始めることと同じくらい「継続」することも大事だと思う。それがまた難しいわけだけど。10月くらいからかなんとか、、始めては続けることができるようになった。で、つい先日までは続けることがメタクソ大事で「継続」さえできれば上位10%位には入るんだから、それさえ続けていればなんとかなるかもしれないと思っていた。でもそれもなんか違うような気がする。というか方向性はあっているんだけど何かもっと突き詰めていける何かがありそうな感じ。始めて、続けて、、、なんだろうなんかもっとあるんじゃないかな。まだわかんないけど、きっとそのうち分かるかもしれない。そうだといいな。 来年は小さな目標が早速1月にある。自分にとってはめちゃくちゃ大きいけど、それができたらもっと次に行けるだろうか。どうかな。本当に最近楽しい。無理してる感じじゃなくて自然に楽しい。

これが来年も続くといい

何も書いていないのにちょっとアクセスがあって驚く

とはいえ、一日10とかそんなもんなんですが。一応生活の上では順調に行ってるのかな?という感じです。結局ガチの日記というか、単純にその日食べたものを記録したり、何があったか何も隠さずに書くようなもんだったり、3行くらいしかないようなものを手元のノートに綴っているところなわけです。むしろそっちのほうが楽にかけていいですね。こういうブログというのも悪くはないですが、結局こういう何でもないブログには特に読者もつかないですし、自分も直接何か誰かの役に立つことをかけるわけでもないので。そしてどうでもいいことに気づいたんですが、さっきからめちゃくちゃ誤字が多い。書いては消し、書いては消し。やっぱり飲酒はマジで人間の集中力奪いますね。あと、はてなブログでリアルタイムプレビュー見れるの本当にいいなあ。すごい楽。 もう寝よう、また明日からがんばって生きます。まあ誰も見てないけどさ。。。

気負うのってのは疲れるしあんまり意味がない

自戒の念を込めて


気負ってやろう遣ろうとしていることに限って全然うまくいかない。当然なんだけど、気負っているってのはものすごく意識しているということだ。自分のやっていることに適度に意識を向けるのはいいことなんだろうが、この加減がなかなか難しいもんでついつい、いきすぎちゃう。大体元来繊細というか気の小さい人間なのでどうしても人に見られることを意識したりだとか、結果を確実に出していかないといけない、みたいな状況はかなり分が悪そうな感じだ。だからなのか最近のブログ、というかマジではてなブログ型の日記帳になってきたけど、誰かに見せられるものを、とか考えないと反対に妙に気軽に書けるもんだ。実はこのブログを始める前にちょっと頑張って面白ブログみたいなものをやってみようとしたことがあった。恥ずかしいが、今考えてみると本当に面白くないくそみたいなもので、でも結構書くのに労力がかかっていたと思う。大したことは書いていないし、分量だってそれほど大きいものでもなかったのになぜあんなにも書くのが億劫で大変に感じていたんだろう。やっぱり気負っていたからなんだろうな。つまり何も考えずにただ感じたままにとりあえずやってみる、みたいなことができなかったんだ。とりあえずやってみる。これって実はかなり大事なことで特に俺みたいな頭でっかちにはこういうとっかかりは効果的だ。だって始める前からうだうだと未来予想図を描き始めるもんだから、まあ進まない。この進行の遅さってのは致命的だ。どうせ影響力なんて皆無で大した内容もないんだからちゃっちゃと始めるのがいいんだ。で、とりあえずやってみて、あんまり合わなければすぐにやめて別の方向に向かえばいい。そう、トライ&エラーだ。こういうのを繰り返していくと自分の向き不向きというやつがかなりはっきりしてくる。好きとか嫌いとか、できそうとか苦手そうとか言ってやってみなければそうそうその分野・世界のことはみえてこない。やってみれば案外簡単にできるかもしれないし、まあ逆にやっぱりダメだったりもすることもあるだろう。でもやってみて、試してみての実感は強いな。頭の中だけで考えていることというのはけっこう的外れなことも多いし。そうやって世界を広げていけたら楽しく過ごせる空間も広がるし、以前は苦手だったものも存外好きになっていることだってあるかも。とかくやり始めの時ほど、やってやってやってやって、やってみてある程度行くまでは余計なことは考えないのがいい。下手な考え休むに似たりだ。
下手な考え休むに似たり。。つまり俺は休んでばっかだったということか。そりゃあ周りと比べてなんか足りないなあと感じていたのもうなずける。というか本当に休んでいた人に比べて、下手に考えていた、というか意味もなく考え込んで迷って悩んでいた分、妙に疲れることも多かったし、もうほんと意味ないな。

ついでに他人の幸福とか不幸とかについて


そういえばこの前から思っていたことで、他人の不幸は蜜の味、ということわざ?について考えていたことがある。これはつい最近まで自分にもあったことなんだけど、人が幸せになっている場面を見て単純に祝ってやるとか、そこまでいかなくても喜ばしいことだと本当の意味で祝福の気持ちをもってやれるのは案外難しい。SNSとかで言ういいねボタンなんかも、もしも有料というか同情するなら金をくれ!ではないけど、いいねをするたびに一定額投げ銭しちゃうみたいなものだったら果たしてどれほどみんないいねができるだろう。でも反対にものすごーく不幸な投稿に対してであればどうかな。意外と金払ってでもいいねしたくなるのではないだろうか。そこにはいろんな感情があるだろうが。単にこの金でうまいもんでも食って元気出せよ!みたいな太っ腹な気持ちから出てくるものかもしれないし一概に他人の不幸を喜んでいるわけではないと信じたい。でもやっぱり人が幸せそうにしている場面というのはこう、なかなか祝福するのは難しいな。その人が知り合いで人となりも知っていてようやく芽吹いて春きたる、みたいな感じであればだれでも素直におめでとう!できるのかもね。
で、まあこういう心理があるのは昔からよく言われているわけだけど、冷静になって考えてみるとよく知りもしない他人が幸せになろうが不幸になろうが、そんなもんどうでもいい。ただでさえ足りない時間と脳細胞の無駄遣いなだけだ。世界の幸せの総量が決まっているのであれば人が幸せになるぶん自分の取り分が減るんだろうが、んなわけない。単純に資源の話とかだったら別だろうが、それはそれでもっと巨大なお話になっちゃうので個人ではどうすることもできんし。じゃあやっぱり他人のラッキーとかアンラッキーな出来事があったとしてもそれは俺には関係ないのだ。だからどうということもないけど、まあいいか

大学7年生だと思うことにした

そう、しょせんその程度のちがいだ

俺は大学7年なんだと開き直ることにした。実際そうやって考えるとあんまり大した問題でもないもんだなあと思えるというか、なんでも考え方次第なんだなあとしみじみ。「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」あの有名なチャップリンの言葉らしい。そんなもんなのかもしれない。多くの人は近視眼的に物事をとらえがちなんだよな、もちろん自分も含めて。とりわけ自分がかかわる物事ともなると、なかなかどうして遠くが見えなくなる。不思議なもんで、全然関係ない人のことはもうびっくりするくらい平然と冷静とみていられるものだ。人の振り見て我が振り直せなんてことも言うが、ああなるほど、客観視とは自分ではなく他人の視線でやるものなのか。この視線を自分に対してできる人はなかなか強い。つまりかっこよく表現すると第3の目、みたいなものかな。うーん多分だけど、自分のことでも過去のこととか割とどうでもいいことなんかは結構この第3の目で見やすいだろうな。過ぎ去ったことなんかはもうどうすることもできないからどこか冷静な目で見ることができる。だからだろうか、現在や未来の総量が相対的に減ってきている大人は割と諦観しやすくなる。これは過去のデータが増えてきて類似の出来事に遭遇する機会が増えてきたからじゃないのかな。つまりある程度は予習済みのことに相対することになるわけだ。こうなるとけっこう冷静に見つめることが多くなるのかもしれない。逆に言うと新鮮味には欠けるからある意味、本気になって取り組むきっかけはどうしても減ってくるんだろう。若いころはとがっていた人も年を取ると丸くなる、みたいな感じか。ようわからなくなってきたぞ。閑話休題。こういう第3の目を意識的に持つことができるようになると何がいいんだろう。一番は余計な心配というのをしなくなるのかもしれん。俺はかなりの心配性なのでもうちょっと進むとすぐに怖くなってしまってくよくよすることが多い。これじゃ心配症というか単にメンタルが弱いだけかな。割と暇なのと、あとは現在と遠い未来の出来事を想像してしまってしり込みしているんだ。ぶっちゃけ言うと何の意味があるのか。いやない、反語ってこうだっけか?人生なんてのは人類史的に大きなことを成し遂げるためにあるわけじゃない。単に生きていくためにあるんだ。生きるために食ってかなきゃならんしそのためには金が要る。だから前見て歩いて、惰性でも何でもいいから、とにかく「生きる」をしなきゃならない。で、そうなってくるとよくわからん自意識がちょっと邪魔してくるのだ。これまたタイミングも悪くって、不詳このわたくしはあの大不評だったゆとり教育なるものどまんなかの世代である。そう、個性を大事にしなされなんて言うちょっとポエミーな教育を享受してきた年代なわけだ。正直そんなにゆとり教育に不満があったわけでもないが、やっぱりこう、自分を過剰に大切にしすぎるきらいがある、そういう教育の結果を感じることも、まあ割とよくある。でも別にそういう自意識だとか自分の個性を認めてほしい承認欲求というのは淡々と生きていくにあたってははっきり言って邪魔なわけだ。そういうのはどんなちゃらんぽらんな放蕩生活送ることになっても大丈夫な金持ちの生まれのボンボンだとか、選ばれしエリートの集団にでもあったらかなーりいい働きをしてくれるだろう。でもでも俺みたいな小市民にはこう苦しいんだ。これは。あんまりないほうが身のためというか、あって得したことは、ほぼないな。だからこそだ、なんでもない俺を第3の目で見つめつつも淡々となんでもない日常を踏みしめていければ、たぶん今よりもかなり違った景色が見えてくるはずだ。淡々と、日常を、見つめ歩いていく。とかいう多分凡人にとっては結構クレイジーな難しい目標を立てちゃったりして。

実はこのブログも淡々と続けてこれたことかもしれない

これは、、、どうかな。そう思いたきゃそうなんだろうけど、一か月ほとんど更新していない月もあったので本当の意味で積み重ねてきたものとは言えないかも。でもつい先日このブログというか日記帳をボケーっと眺めていたんだが、なんでだろうか、妙な充実感があった。あ、この時はこうやって考えていたのかとか、この時に比べれば少しは気持ちも行動も前進しているな、とか。そういう振り返りにもなったと思う。記録を取るって実はかなり強力な第3の目を作る訓練になるんじゃないかなあ。特に毎日少しでも日記を書き続けることができると多分もっともっと客観視の下地ができてくるのかも。知らんけど。まあ正直ここ数日書いている2000字くらいの長めのポエムというか感想文というか、そういうものだけじゃなくて単に今日はこれこれこういうことがあった。楽しかった、とか疲れた、とかそういうものでもいいのかな。どうもここ最近はこうやってつらつらと書き記すことで自分の心にたまってた毒素みたいなものを吐き出している感じがする。だから義務感とかではなくって、結構楽しいから書いている節がある。というかこうやって書かないとなんか溜まりに溜まって変になりそう。いや別にそこまででもないかな。何だったかの研究ではネガティブな感情は何でもいいから書き出しているとかなりストレスの軽減につながるらしい。意外だけどネガティブな感情を書くことで気持ちの整理ができるのかもしれない。これも淡々と記録していくことによって自分の嫌な感情、それを起こした出来事を遠くの目で見つめることができるからなのかな。ああなんかいい感じに気持ちよくなってきた。今日はこれで終わり。

拗ねるのは地獄

類は友を呼ぶ

なんとなく。なんとなく思ったことがあって、それは大人が拗ねるのはかなりデメリットしかないということだ。いい年した大人がいじけていたり、不機嫌だったりするのを見て自分だったらどう思うのか考えた。多分かなりの確率で離れていくし、面倒だと思う。そういう人のところには誰も集まろうとはしない。あたりまえだけど、そうやって生きていくと人が集まらないから余計に変なこと考えちゃって、また不機嫌が顔に出てくる。そうするとまた、、、という悪循環。なんで悪循環というのはこうも見事に成立するんだろうか。いい流れってのは起こすまでも大変だしそれを継続させるのも大変なのに、悪循環はもう意図せずとも起きる。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。なんて言うが、成功には再現性があんまりなくって、失敗にはものの見事に再現性があったりする。閑話休題。とにかく今の俺にはそもそも類は友を呼ぶという言葉以前に人とのつながりとかが皆無なのでこれから人付き合いというのをやっていかなきゃならないわけだけ。そういう時に自分自身の態度やら考え方やらと同じような人が周りには集まってくるんだろう。学生時代を思い出すと確かにその時々の自分の考えだったり、能力的なものだったりに比例して人が集っていたような気もしている。ああ、それほど悪い感じではなかったので、俺自身の人間性というやつは地獄絵図というほどは悪くないもんだと信じたい。実際どうなのかはわからないけど。失敗から学ぶというのは腐るほどあるのでいいコミュニティーを作っていけた人の話ばかり取り入れるだけじゃなくて、もうなんでこんなんなっちゃったんだ、みたいな人の話をたくさん見聞きしたほうがよさそうだ。大体ものすごくうまくいっている人の話をじっくりひも解いてみると、その時々の不思議な運というか、偶然みたいなものに助けられていることが多かったりするんだ。まあその運をつかむのまでもものすごい努力をしていたりするわけだけど。運、努力、才能、センス、人脈。そういうものが絡み合ったときにようやく成功することができるのかもしれない。くっだらないことで機嫌を悪くするのはもったいない。そんなんだとただでさえ陰陽で言えば陰の人間なのに周りにも陰気な人ばっかりになってしまう。もうお前らどっかの秘密結社かよ見たいな集団になりかねん。気を付けよう。

停滞、調和、不快、混沌

ついでに、さっき見たTEDの内容の感想でも書こう。簡単に言うと人は快適な状況の中では成長せず、いやそれどころかよくて現状維持、人的価値の減価償却みたいなことまで考えると衰えていく一方だという。そこで大事になってくるのが不快だと感じる場・自分の欠点を指摘してくれる師匠を持つということ。ここが一番成長する。人が置かれる環境を4段階で区別すると、停滞、調和、不快、混沌とある。停滞、これはまさに今の自分の状況かな。いや多分停滞と調和の中間くらいかも。停滞ってのは本当にのっぴきならない、何もできない状態。がんじがらめになってしまっていて、動くこともままならない。鬱とか引きこもりとか。そういう段階かな。次に調和のとれた状態。これはきっと多くの人が最も長い時間所属している段階だろう。安定していて、やったことに対する結果が予測しやすい。つまり慣れた環境に長く身を置いているわけだ。学校でも職場でも、あるいは趣味の集まりでも。自分が何かをするとどういう反応や結果が返ってくるのかかなりわかっている。快適である一方で実はとても危険もはらんでいる状態でもある。でもこういう安定したものを得ると、外に出たくはなくなるよね。そりゃそうだ。で、不快を飛ばして先に混沌。これは何だっけな。会社の合併とか自然災害みたいなことを言っていたか。いろいろと変わりすぎて自分じゃどうしようもないような状況。不快を通り越しているので成長とか言っている場合ではなく、自分の生存が重要になる。ある意味では成長できるのかもしれないけど。そもそもまじで死ぬ可能性がある状況だったりする。停滞と混沌は両極端だけど、どっちも何か積極的に選び取れるようなものではなくなってしまうのでできれば避けたほうがいいだろう。それができないから困るんだけどさ。そして最後に、不快な状況。これこそが一番身を置く効果がある。考えてみれば当然だけど、慣れ親しんだ人・場所に1年間いるのと、まったく知り合いがいないところに行って1か月過ごすのではどちらのほうが学びが大きいのかって話だ。これが行きすぎちゃうと混沌の段階にいって鬱とかになって停滞に落ちるのかな。そう考えるとベストなのはメインの場は調和がとれていて、適度に不快な状況もある。そして副業のような形で割と経験したことのないような不快な状況にあえて飛び込んでみる。みたいな感じだろうか。こうやって考えるとサラリーマンやりながらの週末起業ってのはかなり理にかなっているなあ。いざとなれば調和のとれた職場に戻ることができるから、セーフティーネットもあるわけでなかなかおいしい状況なわけだ。前提として、本業があまりにも激務だと体壊すこともあるけれど。それはそもそも本業が不快なわけなので週末起業とか無理にする必要もないのかもしれない。

快適さが人をダメにするのはなぜか